第9回 細野晴臣「トロピカル三部作」とは
SIDE A 「トロピカル・ダンディー」から「泰安洋行」へ
YMO結成前の1973〜77年頃まで、細野晴臣は鈴木茂、林立夫、松任谷正隆らとともに音楽集団「ティン・パン・アレー」で活動していた。荒井由美、吉田美奈子、大貫妙子、矢野顕子らのバックバンドやプロデュース活動をおこなっていた。そのかたわら、細野はのちに「トロピカル三部作」といわれる3枚のソロ・アルバムをリリースし、当時の音楽界を少なからず困惑させてしまった、という。
はっぴいえんど解散後、最初のソロ・アルバム「HOSONO HOUSE」を発表した細野は、日本語によるロックがだんだん茶の間に入り込むにつれ、日本のロックがじつは北アメリカからの借り物でしかないと常に危惧していた。そんなとき、彼の頭の中に「トロピカル」というキーワードが浮かんだという。当時聴いていたマーティン・デニーのエキゾティック・サウンドに圧倒され、また久保田麻琴から「細野さんはトロピカル・ダンディーだよ」といわれたことがきっかけだという。そして'75年、2作目となるソロアルバム「トロピカル・ダンディー」をリリースする。
「トロピカル・ダンディー」1975.6.25リリース <収録曲> チャタヌガ・チュー・チュー/ハリケーン・ドロシー/絹街道 熱帯夜/北京ダック/漂流記/ハニー・ムーン/三時の子守歌 三時の子守歌(instrumental)/漂流記(instrumental) |
このアルバムの特徴は、はっぴいえんどから続いていた、従来のアメリカン・ロックからブラジル、中国、ヨーロッパの音楽的要素を彼なりに解釈して可能な限り採り入れたこと。ミュージシャンはティン・パン・アレーを中心に久保田麻琴、南こうせつ、吉田美奈子、大貫妙子らが参加している。ここで、細野晴臣の今後の音楽を予感させる、次の言葉をライナーノーツ「島について」より引用する。
「僕の好きな港は上海、香港、横浜、ニューオリンズであります。(その経路は)上海からフランス、そしてスペインを通って、西インド諸島に運ばれ、それがニューオリンズ港に陸上げされ、そこではじめて東京に持ってくる、(中略)この長い旅をし終わった音楽は、途中で出会ったありとあらゆるエッセンスを含んでいて、とってもおいしいのだ。」
「僕が考えるに、更にその上にひと味たしたらどうなるか?と思うのです。(中略)要するに太平洋をもう一度渡ってきてもらって、しょうゆ味の一滴をたらしてみたくなったのです。これを”ソイ・ソース”ミュージックと名付けてしまった。」
ただこのアルバムの惜しかったところは、そのコンセプトがA面だけで完結してしまったことだと、のちに細野は語っている。
「この当時はB面も作らなきゃならなかった。ホントはB面真っ白でも良かったんだよね」
そして翌'76年、トロピカル・サウンドをさらに純化した「泰安洋行(Bon Voyage Co)」を発表する。
「泰安洋行(Bon Voyage Co)」1976.7.25リリース <収録曲> 蝶々-San/香港Blues/"Sayonara"The Japanese Farewell Song Roochoo Gumbo/泰安洋行/東京Shyness Boy/Black Peanuts Chow Chow Dog/Pom Pom蒸気/Exotica Lullaby |
ミュージシャンは、前回に引き続きティンパン・アレーが参加。他に当時シュガー・ベイブを解散したばかりの山下達郎がA面1曲目「蝶々-San」で重要な役割を果たしている。音楽のジャンルも沖縄民謡、ハワイアン、カリプソ、ゴスペルが加わり、サウンド面でも、ギター、ピアノに加え、マリンバ、三味線、スチールドラム、ウチナグチなど、まさに”チャンキー(ごった煮)”。マーティン・デニーのエキゾティック・サウンドにヒントを得た部分はあると思うのだが。
当時はこれを「人さらいの音楽」と思ったひともいたというが、その奇妙すぎる音楽に、ほとんどのひとは敬遠してしまった、というのがどうも事実のようである。そして、この上記2枚のアルバムの楽曲で、横浜、中華街にてティン・パン・アレーのライブを行った。この模様は、当時放送作家だった景山民夫がTVで紹介した。
SIDE B 「はらいそ」、そしてYMOへ
'78年、細野に転機が訪れる。アルファレコード社長(当時)の村井邦彦からプロデュース契約を持ちかけられ、それまでのクラウンレコードからアルファへ移籍したのだ。細野はそこで、シンガーであるリンダ・カリエールのプロデュースを行うが、発売直前で没にされた。この失敗をふまえて、次のプロジェクトであるYMOを構想するが、そのさなかにトロピカル三部作の完結編となる「はらいそ」をリリースする。
「はらいそ」1978.4.25リリース <収録曲> 東京ラッシュ/四面道歌/ジャパニーズ・ルンバ 安里屋ユンタ/フジヤマ・ママ/ファム・ファタール〜妖婦 シャンバラ通信/ウォーリー・ビーズ/はらいそ |
クレジットが「ハリー細野&イエロー・マジック・バンド」となっており、少なからず今後のYMOを意識しているようだ。ところで「イエロー・マジック」という言葉は、ティン・パン・アレーのアルバム「キャラメル・ママ」に収録された「イエロー・マジック・カーニバル」という曲ではじめて使われた。この言葉は、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」からヒントを得たことと、「西遊記」に登場する「黄魔大王」などの黄色い妖怪のイメージだと説明されている。
参加ミュージシャンは林立夫、佐藤博が中心で、当初は彼らとグループを結成しようとしていた。しかし両人ともこの要請を断ったため、レコーディングに参加していた坂本龍一、高橋ユキヒロ(当時)に声をかけたのである。「ファム・ファタール〜妖婦」では、この3人が演奏しているが、YMOと印象はまるでちがう。
前2作とこの「はらいそ」で大きく異なるのは(レコード会社の影響もあるのだが)、シンセサイザーが大幅導入されたこと。ただしコンピュータとの同期ではなく、ミュージシャンによる生演奏であるが、それまでの”チャンキー・サウンド”からはかなり整理され、すっきりと、整然としたサウンドに仕上がっている。そしてB面ラストの「はらいそ」では、東京の埠頭を歩く細野が登場する。そのうち音楽がフェードアウトし、突然走り去ると思いきや、また舞い戻ってくる。そして一言。
「このつぎは、モア・ベターよ!」
「はらいそ」発表後の6月、細野、坂本、高橋の3名は、YMOとして最初のレコーディングを行った。マーティン・デニー「ファイアー・クラッカー」を録音するものの、仕上がりがそれまでのサウンドと変わらず、失敗と判断され、マルチトラックは消去された(そのため音源は残っていないが、筆者は「はらいそ」に近い音と想像する)。ここで、YMOにはコンピュータが不可欠だと細野は思ったという。坂本龍一のファースト・ソロアルバム「千のナイフ」でコンピュータを導入した実績をふまえ、プログラマーとして参加した松武秀樹の協力を得て、7月に改めて「ファイアー・クラッカー」を録音した。
そして11月、細野晴臣&イエロー・マジック・オーケストラとして最初のアルバムが発表された。
「yELLOW MAGIC ORCHESTRA」1978.11.25リリース <収録曲> コンピューター・ゲーム〜サーカスのテーマ/ファイアークラッカー/シムーン コズミック・サーフィン/コンピューター・ゲーム〜インベーダーのテーマ 東風/中国女/ブリッジ・オーバー・トラブルド・ミュージック マッド・ピエロ/アクロバット |
このつづきは、Part1およびPart3をご覧下さい(2005.9.13)
(敬称略)
YMOコラムはこの回を持ちまして、一時終了とします。
しかしYMO及びその周辺に新たな動きがあり次第、突如再開するかもしれません。
(考えられるのは、2008年の結成30周年の頃かな?)
梅は咲いたか、YMOコラムはまだかいな。という具合に、首を長くしてお待ち下さいませ。
とりあえず、ご愛読ありがとうございました。
「トロピカル・ダンディー」にて紹介しましたニューオリンズ港につきまして、過日、超大型ハリケーン・カトリーナの影響により、 甚大なる被害を被りました。被災者の皆様にお見舞い申し上げますとともに、犠牲者の方々に慎んで哀悼の意を捧げます。 2005年9月 KouChan |
<参考文献>
「レコード・コレクターズ」2003年2月号(ミュージック・マガジン)
「HOSONO BOX 1969-2000」ライナーノーツ
「トロピカル・ダンディー」(2000リマスター版)
「はらいそ」ライナーノーツ(2005リマスター版)
ほか